すべて都合が良い

だれでもないわたし

遺伝子

遺伝子に刻まれてる自分が反応する好き嫌い。

これって変わらないものなのかな?

何度も繰り返した行動をまた繰り返すことによって快楽が生まれる自動機械が生まれる。

これは自分の遺伝子によっての喜びなのか、繰り返し過ごす日常から生まれた新たな喜びなのかな。

世界が喜んだことを自分も繰り返してみて、自分も同じように喜んでみる。

これは自分の遺伝子をだまして喜びを騙すんだ。

どこに自分が喜ぶことがあるのかな。

教えてほしい。自分に語りかけてもよくわからない。なにも言ってはくれない。

絶望してる

自分の価値のなさに絶望してる。

きっと友達を意識に作りに行けば出来ると思うのだけど、なぜかいつも自分の周りには友達という存在がいなくなる。

意地悪い人が自分にとって困るような質問をしてきたり、本音で話していいよっていってきたから全部を出したらめんどくささしかなくて離れていってなんにもなくなる。

どうして、自分はだれかを思いやれたりすることが出来ないのかな。

基本、目の前の人の人生が幸福であれって思ってるのに、忘れちゃって自分の快楽を求めた感じになって、無くなっていく。

どうしてこうなっちゃうんだろうね。

期待があるから、無くなった時の心が痛い。

 

どうしてこうなったんだろう

自分の価値をもっとも分かってくれる人と出会いたいとは思う。

3日引きこもってると外は自分に対して全くといっていいほど興味がないということに気づく。

自分から発信していかないとなにも生まれない。

人が作った場に入っていくことって、そこの出来てる状態に合わせないといけないから、

かなり無理じゃん。

 

人に合わせなくてもいいくらいにわがままを言えるくらいにレア度を上げることをやらないといけない。趣味も合わせることもなかなかに苦手だから、自分が深くなって自分が得意とするフィールドを作ろう。

 

なんでだろう。

なんでこんなに1人でしか生きることが出来ないんだろう。全部が1人で完結するような生き方しか出来なさすぎる。

相手に合わせるか合わせないかの2択でしか、人と関わることが出来ない。

すべて極端にしか生きれない自分のせいだけど、

すっごい悲しい。誰かとしゃべりたいよ。他人大好きなのに話したいのにダメだよな。自分が生きてることを知ってほしい。

捨てることが出来ない病気

前のブログを爆破したいんだけど、

割と自分の書いた文のデータベースとして役に立ってるから、粉砕してなかったことにできない。

過去のものでも形がなくてもあっても捨てることがどうしても苦手で、あったら何かに使えるのではないかな?と残す癖がある。

人間関係でも自分は鬼のような形相で繋がりがあったら良かったと全力で悔やむ系なので、

かといって現在にあったからといって特にしたいことがないから困りものだけど。

ないものに対して気持ちが揺れ動いてしまうのです。

未来はやりたいことがいっぱいあるのだから、こだわる必要なんて一切ないのに、捨てることが出来ないものがいっぱいある。

なんでも女々しく思いを募らせていきたい。

うーん

すごい嬉しかったことがあって、

最近誕生日だったんだ。

マジで、1人も友達がいなくて自分の生を祝われるような優れた行動をしていなかったけど、

ファンクラブに入っててそこからテンプレだけど、お祝いメールを頂くことが出来て本当にうれしかった。

祝福ってすごい良くて、誰かを思うっていうことが出来るのってとても嬉しいなぁと感じます。

思われることの凄さもきっととても良いのだけど、誰からも自分の生を歓迎されていない感がすごいのです。

まぁ、それは人生トータルで考えた時の1/365の友達力が出る日なので、

これまで人との関わり方が出るだけのこと。

自分という人間がこういう人間でこういうことが好きで、こういうことに興味があって、こういうことをすると幸せだと思うんだ。

それを知ってもらうとか、知るとか全然出来てなさすぎた。

というか、自分の心にも聞いてこなかったから伝えることもできない。

思い

現実の目の前で起こった出来事に対して気持ちを動かしたい。思い出や思いを馳せて想像させたことも必要だけど、

何事も過多に妄想をするのは思い込みで、時に現実を破壊してしまう。

目の前にいる生きた人間を感じてることを自分も感じたいし触れてみたい。

想像だけではわからない生の気持ちを合わせてみる。

脳がギシギシする。文字だけで気持ちをしっかり読み取ろうとすると頭を締め付けるような痛みを伴うので、マイルドに考えてたら誰の答えも分からなくなってしまう。

際の際まで近づいて、心を見て与えたい。

恋をしたい。

いや、してるんだけど生きてる人に対して現在進行形でしてみたい。

最近まで恋だと思ってたものは、自分が録画録音した思い出に対して気持ちを馳せていた行為だった。

生きているから声をかければ返事をくれるけど、きっと自分に対して興味を示してくれないのだから、

自分の思い出というレンズを通してでしか、恋をしていない。

フラットな状態で眺めたら恋心ではなくなってしまうことが、ただの他人になってしまうことが酷く悲しい。

もともと他人と他人なのだから仕方がないことだけど寂しい。

やっていることも日々の生活で大切にしていることも違うのだから、

そこで共に生きるということが出来ないのが寂しい。

本当の思い出になった時にあの時ああしとけば良かったとか思うのだけど、

ああしとけばが全然思いつかない。

 

恋ってなんだろう?恋をしてみたい。

なにかを大事にしたい。きっと誰かと生きることをしてみたいのだから、1人で立って歩けるようにならないとだな。